古美術商 | − 夜桜 − | |
「一緒に夜桜を見ないか?」 クワイ=ガンから久しぶりの連絡に、いいですよと快く承知してオビ=ワンは電話を終えた。あれ?と思ったのはその直後だ。この春はまったく天候不順で友達とのせっかくの花見も震えるほど寒かった。それが四月の始めなので、とっくに都内の桜は散ってしまった。遅咲きの八重桜も残り少ないだろうが、クワイ=ガンには心当たりがあるのかもしれない。 だいだいあの人自身が予測できない事が多い。今ではオビ=ワンも慣れたが、まあ、驚くことが未だに起きる。不思議系でもそうでなくても――。 午後クワイ=ガンの店を訪ねると、和服姿で迎えてくれた。仕事柄着る機会が多いというクワイ=ガンの着物姿は何度も見ているが、紺色や茶色系が多い中で始めて見る緑の色合いだった。オビ=ワンは思わず目の前の長身に顔を見上げてひと回り視線を走らせた後、失礼だったかと気付いた。 「――あの、春らしい着物ですね。何色っていうんですか?」 「着物は淡萌黄色(うすもえぎいろ)の紬で羽織は柳色だろうな。帯は金茶色のつづれ織だそうだ」 「今日それ着て仕事だったんですか?」 「いや、本来は三月頃に着る品だが今年は機会がなかった。一度くらい良いかと思ってな」 「似合ってます、すごく」 「ありがとう、さて一服どうだ。略式だから気楽にしてくれ」 店の奥の和室でクワイ=ガンは茶を点ててくれた。クワイ=ガンと知り合ってから茶道へ興味がわき、学園祭のお茶席を体験したりして、ひと通りの作法はわかるようになった。それでもクワイ=ガンがオビ=ワンへ抹茶を点ててくれるのは初めてだった。といっても湯は電気ケトルでわかしてあった。 クワイ=ガンはオビ=ワンに横を向けて座り、帯にはさんでいたふくさをとって慣れた様子でさばき、膝の前に置いた黒塗りの棗(茶入れ)を丁寧に拭いた。 流れるように自然なしぐさにオビ=ワンは言葉無く見惚れてしまう。優雅といっていいクワイ=ガンの所作だが、大きな手の中で道具が子供用みたいに思えてしまうのが少しおかしくもある。 するとクワイ=ガンが顔を向けお菓子を食べるよう促した。オビ=ワンは緩んだ口元を戻し、急いで小さな干菓子を口に入れた。 クワイ=ガンが点ててくれた抹茶は湯加減もちょうどよく、香りも味も素晴らしかった。 口に入れたとたん、思わず美味いと呟きが漏れる。クワイ=ガンの目が和む。 オビ=ワンも瞳で返し、ゆっくりと茶を味わった。 「ほんとうに美味かったです」 「もう一杯どうだ?」 「いいですか?じゃ少しすくなめでお願いします」 おかわりも美味しくいただいたオビ=ワンが黒楽の椀を返すと、クワイ=ガンはそれを湯ですすいできれいに拭きあげてから又茶をすくい始めた。 「私も一服飲もう」 「お茶、足ります?」 そういったのは、抹茶が入っている棗が普通よりやや小ぶりに見えたからだった。 「充分足りる」 クワイ=ガンはそういって抹茶を茶杓ですくった。ひと匙すくってから一瞬眉をひそめたが、こんどはゆっくり左手で棗を持ち上げ、斜めに傾けて茶杓の先で底に残った抹茶を茶碗に落とした。その細心の注意を払う様子を見たオビ=ワンはクワイ=ガンの持つ棗に目が行った。 一見ごく普通の黒無地の漆器のようだ。が、うっすらと表面に模様が描いてあるようだ。 「その棗――?」 クワイ=ガンは手を止めた。黙ってふくさをさばき、蓋をした棗を作法通り丁寧に拭きあげた。 そうして懐から茶道具を拝見する為の薄紫の小ぶくさを取出して広げ、その上に棗を置いた。そうして向き直り、オビ=ワンの前に小ぶくさを進めて置いた。 「拝見します」 礼をしたオビ=ワンに肯き返し、クワイ=ガンは湯を注いで茶を点てはじめた。 オビ=ワンは普通の棗よりやや小さな茶入れをまじまじと見つめた。漆塗り特有の柔らかい光沢の表面は無地のようだが、よくよく見ると模様が浮かび上がって見える。 「これは、花模様、桜――?」 「黒漆で桜を描いてある。夜桜の棗、という」 「黒に黒の桜、それで夜桜……」 さらに注意深く蓋を開け、空の内部に目をこらしたが模様が無いのを確かめ、静かに蓋を元に戻した。 「夜桜棗は千利休の養子で娘婿だった千家の二代目、小庵の好みと言われる」 「そうですか」 商売柄、クワイ=ガンは鑑定もするし値段も決めるが、オビ=ワンにはそういった事は気にせず自分の感じたことを大事すればいいと言う。この棗はとても古くて相応の価値ある品だろうがそれはともかく、とても好ましいと思う。何故か懐かしく暖かいぬくもりさえ感じる。 オビ=ワンは棗を拝見用の小ぶくさにそっと置き、少し屈んでもう一度眺めた。 クワイ=ガンはオビ=ワンに横顔を見せ、自ら点てた茶を味わうように飲んでいる。 その時クワイ=ガンに髷を結い袴をつけた壮年の男性の横顔が重なった。自分もいつの間に着物を着て長い黒髪を背で結った女性になっているのだった。そうして棗に目を凝らし心に決めた事を告げる勇気を振りしぼろうと集中していた。 「お願いがあります」 うん?と男が茶碗を持った手を止めた。 「この夜桜、いただけませんか?」 顔を向けた男性と目が合う。見つめあう二人、それは長かったようでもあり、ほんの刹那だったかも知れない。驚きと困惑混じりでこちらを見つめた顔の頬が微かにゆるみふと微笑んだように見えた。 そこでオビ=ワンは我にかえった。そして自分の口から出た言葉に驚き、眼を見開いたまま薄く口を開けたが声が出せない。クワイ=ガンも一瞬動きを止めたが、すぐに手にした茶碗を静かに畳の上に置いた。そうして身体の向きを変えオビ=ワンに向き直った。 「――クワイ=ガン、今のは?」 「おそらく、かなり前にこれの持ち主だった者だろう」 「いつ頃?」 「姿からして江戸時代の始めだ。実はこの棗はかなり良い品だが由緒が不明で調べてほしいと頼まれた。いろいろ調べたがはっきりしなかったが、今見たおかげで確信がもてた」 「――じゃあ、さっきの人は?」 「京の茶道家元、千家の者だろう。女性が江戸に下向するさい願ってゆずり受けたんだろうな。元は幕府の旗本が持っていたのを明治になって手放したと聞いた」 クワイ=ガンは声を落とした。 「――これは名も印も無くて証明できないが、私がみたところ千家の宝といわれる他の夜桜棗に並ぶ名品だ。多分、茶席用とは別に自分用に少し小さめに作って愛用したんだろう。当時の女性が江戸へ行くのは結婚か大名家の奥へ勤めるかだ。いずれにしても今生の別れと覚悟したはずだ」 「見当がついたってことは、千家の誰だかわかったんですか?」 「ああ、もっとも証拠はない。鑑定結果はあくまで品の特徴から推測できると言うしかない。ただ私自身が知りたいので君の助けを借りた」 そこでクワイ=ガンは悪戯っぽく口の端を上げ、オビ=ワンの瞳をのぞきこんだ。 「動機不順かな?」 「いえ――役に立てたならよかったです」 「ありがとう」 「お礼なんて、いつもこっちこそ――あ!夜桜ってこのことだったんですか?」 クワイ=ガンは小さく笑い、慣れた手付きで茶道具をしまい始めた。 二人は店のすぐ側のクワイ=ガンの住むマンションに移った。その和室の床には清楚な花をつけた山桜が枝を伸ばし、馴染みの料理屋から弁当というには豪華な花見用のお膳が届いていた。 「ささやかだがここで花見といこうか。そういえば今年は通りがかりに眺めただけだったな。東京にいないほうが多かった」 座卓に向かい合って座り、クワイ=ガンはオビ=ワンに箸をつけるよう進め、酒を注いだ。 「今年の花見は寒くて花見した気がしなかったから嬉しいですね。この桜はどこで?売り物ですか?」 「出先で見かけたので、ゆずってもらった」 「持ち帰ったんですか、自分で抱えて?」 クワイ=ガンが頷く。オビ=ワンはその姿を想像してみた。萌黄色の和装で山桜の枝を手にした長身のクワイ=ガン。いや仕事の移動に和服は着ないだろうけど――何故か、先ほどかいま見た茶人の姿を思い起こした。 「――夜桜って、案外華やかなイメージがあったんですけど、茶人の創造力はすごいですね。黒に黒なんて考えられない」 「小庵は利休が切腹させられた後、千家の再興でずいぶん苦労した。かなり忍耐強かったろうな」 「そういう人だったんですか」 「今でこそ茶道の宗家として有名だが初期の千家は生き残りに必死だった。あの女性は系図では養女だ。家の為に江戸に行くことになったかもしれん」 「そうだったんですか?」 オビ=ワンは料理を口に入れ、味わうようにゆっくりかむ。 あの瞬間感じた女性のせっぱつまった気持ち。家の為、育ててくれた父であり、茶の師であり、かけがいのない男性である人の為、二度と逢えない決心で遠い江戸へ行く。その形見に夜桜の棗が欲しい。 「想いは秘めたままで、お互い決して口にすることはなかっただろう」 「え?」 「闇に咲く桜は清楚で凛とした風情がある。灯りに照らされて優美や妖艶とかいわれる夜桜とはまた別の趣だ。」 そういって杯を口にはこんだクワイ=ガンは、オビ=ワンにも酒を注いだ。 「まあ、どちらもそれぞれの風情がある。それとも君は花より団子のほうか?」 「正直そうかな、実も蓋もないけど。でもお茶も興味がわいてきました。何といっても今日いただいた茶は美味かった。あ――クワイ=ガン」 「どうした?」 「あの夜桜棗、千家の宝と同じくらいの品って言いましたよね。あれって、普通は使えない物じゃ……?」 「君によく見て欲しかったから今回は特別だ。まあ二度と無理だろうな。間違っても略式では」 多分、聞くのが怖い値段。 それをさらりというクワイ=ガンをオビ=ワンは言葉もなく見つめる。 そこへはらりと白い花びらが舞い降りてきた。 End |
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