古美術商 | − 金魚 − |
「神楽坂のほおずき市へ行ってみないか?」 とオビ=ワンがクワイ=ガンに誘われたのは夏の初め。 「神楽坂、行ったことないですけど。お祭りがあるんですか?」 「そこの毘沙門様の縁日みたいなもんだ。商店会が中心になって出店を出す」 「楽しそうですね」 軽い気持ちで承諾したオビ=ワンだが、当日の午後にクワイ=ガンのマンションへ行くと、着流し姿のクワイ=ガンに迎えられた。 長身に、黒っぽいハリのある和服にこれも夏素材らしい象牙色の帯を締めている。 「仕事ですか?」 古美術商という仕事柄、クワイ=ガンは和服を着ることが多い。これまでオビ=ワンが見た和服のクワイ=ガンはほとんど仕事絡みだった。 「いや。せっかくだから着物でいこうかと思ってな」 「これは、浴衣? ではないみたいな――」 黒地に細い白糸が織り込まれた細かい縞模様の生地は、ふれるとさらりとして目にも涼しげに映る。 「能登上布という麻の生地だ。帯は沖縄の芭蕉布。夏は肌につかなくて良い。君の浴衣も出しておいた。着替えてくれ」 「は?!あの」 「手伝おうか?」 「いえ、自分できられます、多分――」 昨年の夏、蛍狩に誘われた際にクワイ=ガンはオビ=ワンの浴衣をあつらえてくれた。 小千谷縮の水色の浴衣はオビ=ワンに瞳に良く映え、見立てたクワイ=ガンも満足そうだった。蛍狩りの後、花火見物にも着たので、オビ=ワンは何とか一人で着られる様になった。その後は学生で寮暮らしのオビ=ワンに着物の手入れや保管は大変だろうと、クワイ=ガンが預かっていた。 「おかしくないですか?久しぶりに着たんで」 「そうだな」 クワイ=ガンは少し目を細め、照れくさそうなオビ=ワンを眺めていたがすとその帯に手を伸ばした。 「帯はあとちょっと下のほうがいいか。」 「あ、はい」 「腰骨に合わせて。しかし君は細いな」 「あの……」 長身を屈めたクワイ=ガンの顔がとても近く感じられ、オビ=ワンはついドギマギしてしまう。 「それでいい。さ、行くか」 クワイ=ガンが顔を上げて背を向けたので、オビ=ワンは安心したけれど、ちょっぴり残念のような気もした。 軽い下駄の音を響かせて地下鉄の階段をのぼって外にでると、夕暮れの神楽坂の通りは両脇に提灯が連なって既に明かりが灯されていた。 むっとする熱気が発ち込め、一帯はまだ汗が引かない暑さだが、浴衣姿の人々そぞろ歩き、そこここに打ち水がされているので、涼しげな気分を味わえる。通りの提灯に案内されるように坂をくだると、間もなく目的の朱塗り柱の毘沙門天のお堂が見えてきた。道路からすぐの広くない境内にはすだれをめぐらした出店が並び、賑わっている。 毘沙門堂にお参りした後、二人は出店にずらりと並んだほおずきを見てまわった。 朱色の実と緑の葉の対比が鮮やかなほおずきの鉢は持ち手のついた立派な籠に入れられ、ガラスの風鈴もついているのに、かなり安い値段だった。町内の人々が祭りを主催しているので、ほおずきも出店の食べ物も格安だと言う。 「今でこそあちこちから人が来るが元々は町内の祭りだ」 「たしかにそんな雰囲気ですね」 「ほおずきはいらないか?」 「そうですね。けど8月はあまり寮にいないから枯らしそうです」 「夏休みか、学生の特権だ」 「ええまあ――」 ほおずき意外にも、おなじみの綿あめ、金魚すくい、カキ氷、などの出店に、境内に設けられた舞台ではカンツォーネが披露され、テーブル席のビアガーデンもある。 浴衣姿の多い中でもすっきりと着こなした長身のクワイ=ガンと鮮やかな水色の浴衣のオビ=ワンは目を引き、除く店々から呼びかけられた。中には知り合いもいるようだった。 クワイ=ガンも挨拶を返している。 オビ=ワンは、クワイ=ガンが立ち止まって話している少し先で待っていた。 「すまんな、呼び止められた」 「いえ全然。知り合いが多いですね、住んでたことがあるんですか」 「住んだことはないが、まあ今でも仕事や何かで付き合いはある。ところでひと休みするか」 クワイ=ガンは行き先を決めているらしく、境内を出て少し先の細い路地に入った。車が入れないほどの石畳の坂を進むと、ビルのある表通りとはがらりと変わり、軒に提灯とほおずきの鉢を吊るした木造の建物が並んでいる。クワイ=ガンは通りの奥の間口の広くない一軒の門をくぐった 「いらっしゃいませ、ジンさん。いや先生、電話いただいてお待ちしてましたっ!」 「先生は勘弁してくれ」 落ち着いた料理屋で一階はカウンターとテーブル席、二階には座敷があるらしい。クワイ=ガンはカウンターに近いテーブル席に座った。 オビ=ワンはもとよりきらいなものはないので、クワイ=ガンが店主におまかせ料理を注文する。 「飲み物はビールでもいいんだが、よければ冷酒を飲んでみないか?ここは良いのが揃ってる」 「日本酒ですか?機会ないのであまり飲んだことないんですが、おまかせします」 氷水を張った桶に入れた薄い水色のガラス瓶の日本酒と、瑠璃色のガラスに鮮やか切込み文様がほどこされたぐいのみが2つ運ばれてきた。 冷えた日本酒を注がれ、一口喉に流し込んだオビ=ワンはそのガラスの器をしげしげと眺めた。 「きれいですね。これで飲むと日本酒も格別です」 「江戸切子だ。ここの主人は器道楽でな」 と、カウンターから店の主人が料理を盛ったこれもガラスの小鉢を出して声をあげた。 「それはジンさんが進め上手だから。おかげですっかりいれこんじゃいました」 店内を見渡すと、カウンターの後ろの棚の器はもちろん、さりげなく置かれた置物や花瓶もすっきりと洒落ている。 「これも古いものなんですか?」 「いや、江戸切子はいまも伝統工芸として生産されている。それほど高価でもないし、夏の食器にはいいもんだ」 「そうですか。確かに酒も料理も美味しくなりますね」 「何とも素直な坊ちゃんですな。はい、あがったよ」 和服の女性従業員がカウンターに出された料理を二人のテーブルに運んできた。 「薩摩切子や特に古いものでもなければ、好みの品を見つけて飾るにはちょうど手頃だ」 「日本調理は材料も器も季節あってこそですからね。旬のおつくり、鰺・太刀魚・あわびどうぞっ!」 オビ=ワンは目の前の皿をみて思わず、歓声を上げる。 今日はお祭りで人出が多く、予約客のみということだった。他の客も小声で話しながらゆったりくつろいで料理や酒を楽しんでいる。 オビ=ワンはいつものことだが旺盛な食欲で美味い連発し、店の主人や従業員を嬉しがらせた。酒よりは料理が主だが、ほどよく冷酒もまわっていた。 手洗いをすませて店に出ると、オビ=ワンの目の前をふわりと水色の流れがよぎった。 思わず見直すと、透ける薄手のスカーフがたなびいたとわかった。前にいる年配の品の良い女性が身に付けているものだった。横向きだったその女性は視線を感じたのか振り向いてオビ=ワンを見た。 そこは入り口に近いレジの傍で、夫らしい白髪混じりの男性が会計を済ますのを待っていたようだった。女性はオビ=ワンの行く手をさえぎったと思ったようで、軽く会釈して微笑み、身体の向きを変えて下がった。オビ=ワンも反射的に会釈を返した。顔を上げると、奥の席のクワイ=ガンがこちらを見ている。 そのまま女性の脇を通って戻ろうとして、先ほど女性が見ていたカウンターの端の棚へふと顔を向けると、そこに飾られたガラスの器に目がいった。淡い水色のサラダボールほどの大きさの切子の器の中に小さな赤い金魚が泳いでいる。 「――縁日の金魚ですか?」 するとカウンターの客と話していた店主が顔を上げ、不思議そうに顔を向けた。 「これも江戸切子ですか?金魚鉢じゃないですよね」 店主と客の男性はやはり怪訝な顔で黙って見ている。オビ=ワンは変なことを言ったかと、小声ですみませんと言ってクワイ=ガンのいるテーブルに戻った。 「どうした?」 「あそこに金魚がいて――あのガラス、普通の金魚鉢じゃないし、さっきの江戸切子かなって思って聞いたんだけど、変な事聞くと思われたかな」 「どこに金魚がいるんだ?」 「カウンターの脇の棚の、ほら模様の付いた水色のボールみたいな」 クワイ=ガンの片眉があがった。 「――あれは私が見つけて、ここの主人が気に入って買った明治時代の江戸切子の丸鉢だ。金魚なぞ入れるはずないが」 「え、さっき確かに赤い魚が2匹泳いでたけど」 オビ=ワンは振り向いてその切子鉢を見た。 「おかしいな……酔ったのかな」 オビ=ワンは目許を指でこすった。もう金魚の姿は見えない。 「金魚がいると思ったんですか?」 二人に小声で話しかけてきたのは、先ほどの女性だった。 「そんな気がしたんですけど、どうも酔ったみたいですね。変な事いって失礼しました。高価な器に金魚なんか入れるはずないですよね」 「私、この切子鉢に見覚えがあって。もしや子供の時見たものと同じとか気になって眺めていました」 思いがけない話に、二人と女性の夫らしい男性が耳をそばだてる。 「私、小さい時、よく似た器に金魚を入れたんです」 「おやおやそんな話、始めてきいたな」 夫が面白そうに言う。 「ほんとに子供だったから、あなたに言う事でもないと思って。それに悲しい思い出だし。これ、手にとって見せていただくわけにいきませんか?」 店の主人の好意で、客が帰って空いた二階の和室を使わせてくれることになった。馴染み客だという男性と夫人、それにクワイ=ガンとオビ=ワンが上がった。クワイ=ガンが木箱に入れた切子鉢を運んできて蓋を開け、改めて座卓の上にその鉢を置いた。 「明治の中頃、切子職人が作った鉢です。用途はおそらく夏の茶会用の菓子器か果物を盛ったのでしょう。江戸切子は凝った精密な彫りが職人の腕の見せ所なんだが、これはおそらく注文主の好みであつらえた品らしく、彫りもあっさりしているし、藍に近い濃い色が多い中で水色は珍しい。この形なら金魚を入れてもおかしくないが――」 どうぞ、と促され、夫人は膝をすすめ、両手を広げて切子の鉢を手の中に抱くように挟みこんだ。 「……多分6つぐらい。昭和30年代の初め、母の実家が飯田橋の近くにあって、母や兄弟と毘沙門様のお祭りに来てたんです」 夫人はガラスの感触を確かめるように指先でゆっくりと器をさすりながら語りだした。 「私はその頃兄と妹がいて、ひとつ下の妹は身体が弱かったんです。せっかく泊りがけでお祭りに呼ばれてきたのに、熱を出してしまって」 「そういえば、子供の時なくなった妹がいたと聞いた事があるな」 「そう、いなくなるまではいつも一緒だったの。みち子、わたしはみっちゃん呼んでた。長女の私がふみ子だから」 夫人は懐かしげな眼差しで微笑んだ。 「みっちゃんは庭に面した縁側のある奥の部屋に寝かされて、一人だけお祭りにいけなくて可愛そうで、私、金魚すくいの金魚を持って帰って、見せようと思ったの。庭に水がめがあったからそこに入れるように母に言われたけど、ふとんに寝たままだと見えない事に気付いて――」 座卓を挟み、夫人と夫の反対側にクワイ=ガンとオビ=ワンは座っていた。 オビ=ワンは、向こうから見えない座卓の陰で、いつの間にかクワイ=ガンが手を握ったのがわかった。 「みっちゃん、これみて」 「わ、可愛い!どうしたの?」 「金魚すくい」 「おねえちゃん、すくったの?」 「そ、ほら赤いの2匹、みっちゃんとあたしの分」 おかっぱの黒髪を揺らして、これも金魚模様の浴衣を着た少女が両手でそろそろとガラスの器を持ってきて縁側に置いた。 「可愛いねぇ」 「うん、可愛い」 「おねえちゃん、この金魚の家もきれい」 「えとね、ちょっとお祖母ちゃんの借りたの」 「青くって海の中みたい」 「そうだねぇ」 黒髪の小さな頭を寄せ、幼い女の子が二人、部屋の中から縁側の青い切子硝子の海を泳ぐ赤い金魚を見ている―― 『……オビ=ワン』 低く囁かれてオビ=ワンははっと我に返った。 「――祖母がお茶をやっていまして、隣りの部屋の戸棚にいろいろ道具があるのは知っていました。ちょうど夏用の器が出してあってガラスの鉢を見つけたのでちょうどいいと思って。後で見つかって母にひどく叱られました」 「妹さんは――」 「その年の冬、肺炎で亡くなりにました。だから、毘沙門様にはお参りしないまま。祖父母が亡くなってからあの家もビルになってしまったし、辺りも変わったので行く事もなくなりました。それが何十年もたってここで見つけるなんて、夢のよう」 「これは珍しい色合いなので、子供の時見た品だったかも知れませんが、決め手はありません。何か、目印になるものは覚えていませんか?」 「子供でしたから、残念ながら。祖母が亡くなった後、茶道具などはまとめて道具屋さんに引き取っていただいたそうです」 「その後、人手に渡ったんでしょうな。――実は、これは傷物なんです」 「えっ!?」 クワイ=ガンは立膝になって両手で器を取り上げ、斜めにかざした。 「よく見ると、中に割れ目が走っています」 「ああ……」 オビ=ワンも覗き込むと、ガラスの中に確かにうっすらとひびが走っている。 「飾っておくにはいいが、実際に使えばそのうち割れるでしょう。何時こうなったかはわかりません。店の主人は承知の上で買いました」 「ではもう金魚を泳がせるのは出来ませんわね」 「そうですな」 「これ、あの品と確証はないけど譲って頂く訳に行かないでしょうか?」 「――それなら、ご主人のほうから口添えいただけますか?」 「私ですか?」 男性が少し驚いて腰を浮かす。 「ご主人のほうが店主と馴染みのようでした」 「確かに私は仕事の付き合いで来てましたから、家内は始めてです」 では、とクワイ=ガンは男性を促すように立って二人で部屋を出て行った。すぐ戻る、と言い残して。 オビ=ワンは夫人と残された。 「あの、妹さんととても仲良しだったんですか?」 「ええひとつ違いだったし」 「金魚すくいの金魚を持って帰って、見せたんでしたね」 「すごく嬉しそうで、青いガラスが海みたいって。子供だから金魚が海に住めないと知らなくて」 夫人の笑い声につられてオビ=ワンも笑った。 と、襖を開けてクワイ=ガンが入ってきた。出て行ったからものの数分と経っていない。 見ると、手にペットボトルを持っている 「早かったですね」 「ああ、話はうまくいった。間もなくご主人も戻ってこられます」 「まあありがとうございました」 クワイ=ガンはミネラルウォーターのペットボトルを器の横に置いた。 「奥さん、私はこれがあなたが金魚を入れたものだと思います」 「そういっていただけると嬉しいですわ」 「今だけ、その金魚を呼び戻せるかもしれません」 「え、は?」 「一度きりです」 そういうと、クワイ=ガンは蓋を開けて江戸切子の鉢に水を注いだ。 「?……」 ガラスの器に水、上から見ると何ら変わった様子はない。 夫人もオビ=ワンも怪訝な面持ちで鉢とクワイ=ガンを交互に見ている 「下がって、鉢の横を見てください」 言われる通り、二人はそれぞれ後ろを下がった。 「あ!」 同時に声があがる。青く透き通ったガラスの中に赤い金魚が2匹、縁にそって回りながらすいすいと泳いでいた。 二人はタクシーでクワイ=ガンのマンションに帰ってきた。 ほおずきの鉢は買わなかったが、クワイ=ガンはガラスの風鈴をひとつもとめ、ベランダに吊るした。外はまだ暑いが、ようやく出てきた微風がチリリンと風鈴を鳴らす。 「いい音ですね」 「ああ」 「この風鈴の模様、赤い金魚ですね」 「そうか」 「あの切子の金魚鉢と同じですよ」 「もう金魚鉢には使えないだろうな」 「あの奥さん言ってましたね。みっちゃんは金魚鉢から出て海へいったんだって」 「――夢のような話だな」 「なんだか、あの辺りは一瞬いつの時代だろうって思ってしまう不思議な雰囲気がありました」 「私は、そうだな祭りにいったのは子供の時以来だ。何十年も前だ」 「クワイ=ガンの子供の時――」 そういえば、とオビ=ワンはクワイ=ガンの正確な年齢を知らない事に気付いた。 仕事柄昔のことは詳しいが、まさか今日の夫婦より上ということはないはず。 「あの、クワイ=ガン……」 「うん?」 「いえ、あ、そろそろ帰ります。どうもご馳走さまでした。楽しかったし――」 「縁日がきらいじゃないなら、こんど朝顔市へいかないか?」 「朝顔市って、朝顔が売ってるんですか?」 「ああ、昔から入谷が有名だが、今は浅草でもやってる」 「下町は好きです」 「ただ朝顔だから、市は朝のうちにやるんだ」 「そうでしょうね。朝のほうが涼しくて気持ちいいです」 「では、前の晩ここへ泊ると言い」 「は!?」 「遠慮はいらない。そうだ、うちにもいくらか切子があるから使ってみるか。ワイングラス、ビールグラス、ロックグラス、ぐい飲みと一通りはある。薩摩切子もある」 「そんな、無理です!」 「おおぜいなら大丈夫だ。友達も誘うといい」 「あの……」 「二人でもおおぜいでもどちらでも構わないぞ」 「――クワイ=ガン」 からかっているとしか思えない年上の男と目を合わせて、オビ=ワンは小さく溜息を付いた。 「お世話になります」 End 浴衣なら冷えた日本酒とか飲みたくなりますねv |
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